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連載:「間」にみる時間概念と空間概念vol.1

書きかけたメモのようなディスクレビューに以下のようなタイトルだけがついて、本編にも触れず、放置されているものをパソコンのハードディスクの中に見つけた。

サンガツ「静かな生活」
~サンガツの持つ「間」の意味と今回の音密度「疎」「密」、「間」について

音が空間に鳴るということを考えたときに音密度ということを相対的に考えることができるだろう。ある空間内にどういった種類の音が鳴っているか、音量はどの程度であるかなどから通常認識される。相対的であるということは「疎」「密」という言葉でこの密度をある尺度の下、認識される。これは楽音、非楽音問わずこのように認識される。ただし、日常生活において耳に入ってくる音で強く認識する必要のない音はその音量などに関わらず、都合よくキャンセルされて脳で認識されているらしい。
「密」であった音空間があったとして、音密度が徐々に減衰していき、どんどん「疎」の状態が強まる。最終的に音がしなくなる。(実際には音が多少はあってもいいかもしれない。むしろ、完全な無音など意図して作らなければ存在し得ないとも言えるだろう。)この何も音がしないということはどのように理解されているのだろうか。
ここではサンガツを例に挙げて考えた。例としてこれが最も適しているということではない。たまたまであるといえば、そのように感じる。このアルバム、「静かな生活」は、3作目であるが、これまでのアルバムと比べて音数が減ったことが多く指摘されているが、決して音楽として「疎」になった印象を与えない。物理的な音数で考えれば、「疎」化したと言えるが、その一方で減衰していく一音一音がより感じられるようになっており、これまでの発音していく音(「密」化していく音)と同等に減衰していく音(「疎」化していく音)が意識的に音楽の中に盛り込まれているといえる。音自体の取り扱われている次元が発音から消音までに意識の範疇が及んだことによって、今までになかった空間をそこに表出させたと言える。
そして、ここに強く「間」が存在しているように感じる。ここでの「間」とは、

  「間」→認識された空間(ヴォイド)としての「間」。
      「何も無い」ではない。「無い」ということを知っている。そういうスペース。

次の音が「密」になることがある部分では予期されている中で、音が減衰していき「疎」となっていく。この空間を「間」として認識することができるのではないだろうか。「間」というものが持つある種の移行期としての空間の認識とも呼べるかもしれない。

エリックドルフィーはかつて、こう言った。「音は空に放たれ、消える」と。
by under305 | 2006-02-28 04:22 | 考える
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