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Message from Photocollage 連載:「間」にみる時間概念と空間概念vol.3

先日、見つけた写真家で、
ファインアートも手がけるRoss C Kellyという人の
Photocollageという一連のポストカードになった作品を見て、
手にした瞬間、そこに表現されている世界に思わず唸ってしまった。

http://www.rossckelly.com/

一番最初に目にした作品は
東京の外堀沿いの写真のコラージュだった。
複数の細かい写真をつなげることによって、その風景が
モザイク上に表現されているのがわかる。
そして、一枚の東京の過密化して堀の水辺空間の際にまで
あらゆる都市構造物、構成物が迫っている東京の光景が
そこには描かれているかのように見える。
しかし、これは東京のこの場所に立ってみてほしい。
この場所を想像して欲しい。
こんな場所はないのである。
一番正面には東京の中で僕の大好きな場所のひとつである、
丸の内線の淡路町~御茶ノ水駅間の一度外堀の上、地上部分に出る
ところが見える。これがこうした角度で見えるということは御茶ノ水の
位置関係でいくと、東から西を見ないと見えない。
では、作品の画面奥には何が見えるか、
秋葉原の電気街の風景、
それに画面左脇には御茶ノ水の西に位置する中央線市谷~飯田橋間、外堀の北側に
あるケンウッドの看板を頭に載せたビルなどなど。
このコラージュには、空間的な整合性などなく、
位置関係が硬質なイメージすらあるそれぞれの小さな写真によって、
ぐにゃりと変質させられて、再構成されている。
そして、この中では判断できないが、多少なりとも同時間に撮影された写真ではない。
タイムスパンの差がどれくらい意図されているかは不明だが、
「いっせーの」で撮影されて無いであろう以上は時間差が生じている。
順番に各ピースとなる写真を撮っていくにしてもである。
つまり、この作品には写真が持っている瞬間性、一瞬性を部分の集合によって
写真から解放し、さらに一枚の作品の中で
他時間的な多軸的時間を導入している。
これは部分の構成物にある場所性、時間性を一度キャンセルすることで
部分が持っていると場所性、時間性にもう一度意味を持たせているという観点を
与えることができるかもしれないし、
それら部分集合によって、一枚の図版で表現できることの
可能性を広げたということも言えるだろう。
このポストカードは僕にとって、
名前、あて先を持たない都市空間から僕等に宛てられた言葉を持たない
都市の可能性に対するメッセージであろう。
# by under305 | 2006-06-07 10:13 | 考える

白さの中の色彩

ROSSOの新しいPVを見る。

チバがひたすら雪で凍った湖を
ツルハシで叩く。
その白と黒の動きがシンプルというか、
白黒の動画なんだってことがかなり響く、
色を抜いているっていうことがすごく強調されている
ような、そんな色調の白黒。
雪の白さの白の中にあったカラー情報が
うすれていっているような感じ。
雪の白はもちろん白いんだけど、
意図して、白さが変わった感覚で強調されている。
かと言って、うそ臭い作り物感とも違う。
(ただし、終盤の氷の割れ方は同意できなかった)
雪の白の中にあるカラー情報が抜かれたような白さ。
不思議ないいものでした。
# by under305 | 2006-06-02 23:34 | 映像

硝子戸の中

夏目漱石 「硝子戸の中」

「時」

 私は彼女に向って、凡てを癒す「時」の流れに従って下れといった。彼女はもしそうしたらこの大切な記憶が次第に剥げて行くだろうと嘆いた。
 公平な「時」は大事な宝物を彼女の手から奪う代りに、その傷口も次第に療治してくれるのである。烈しい生の歓喜を夢のように暈してしまうと同時に、今の歓喜に伴なう生々しい苦痛も取り除ける手段を怠らないのである。

継続

 ―継続中のものは恐らく私の病気ばかりではないだろう。私の説明を聞いて、笑談だと思って笑う人、解らないで黙っている人、同情の念に駆られて気の毒らしい顔をする人、―凡てこれらの人の心の奥には、私の知らない、また自分たちさえ気の付かない、継続中のものがいくらでも潜んでいるのではなかろうか。もし彼らの胸に響くような大きな音で、それが一度に破裂したら、彼らは果たしてどう思うだろう。彼らの記憶はその時最早彼らに向って何物をも語らないだろう。(中略)
 私は私の病気が継続であるという事に気が付いた時、欧州の戦争も恐らく何時の世からかの継続だろうと考えた。けれども、それがどこからどう始まって、どう曲折して行くかの問題になると全く無知識なので、継続という言葉を解しない一般の人を、私はかえって羨ましく思っている。
# by under305 | 2006-06-02 11:41 | 言葉

情報のスピード ~you tube考~


http://d.hatena.ne.jp/otomojamjam/20060329

先日、と言ってももう2ヶ月前になってしまった。
音楽家、大友良英さんが上記のような記事を書いていた。
自分の映像がここで見れますよ。
って、you tubeのアドレスを紹介している。
普通なかなかこういうことを音楽家が自らやることって少ないと
自分では感じていたのだが、
そのあとの質問とのやりとりも読んで行くと、
大友さんのスタンスに納得でき、こういう紹介の仕方をいいかもなと思った。
というのも、自分もこうした意見に近いことを最近考えていたので、
なおのこと、すっと理解できた。

自分はこれまでに、
様々な音楽家、ミュージシャンを知ることができてきたわけだが、
これらはどのように知りえたかということを考える時に、
you tubeなどのようなインターネット媒体は
それまで数多くの知りえなかった世界とアクセスすることができ、
そこから多くの情報を得てきたわけだ。
そうした中で、これらを完全にシャットアウトすることは
不可能だろうし、これらとどうやって、各主体が関わっていくかは
興味の有る部分でもあるし、みんなが考えなくてはいけないところだろう。

今ある問題として、今回僕がひとつ思ったことは、
そして、これらのインターネットを介した音源のやりとりはある部分で
情報のやりとりという側面が作品に係る権利(発生する利益)以上に強く出ている
気がする。
そうした中で強く著作権を始めとする諸権利を訴える人というのは
それだけ、それが情報としての即効性を認識しており、
その即効性が切れると価値がなくなってしまうことに対して
強く危機感を感じているのではないだろうか?
情報は作品をダイレクトに伝えるよりも早いスピードで、広範囲に渡って伝わる。
その一次波及的な部分にこそ価値があり、
そこで利益を回収しようとする(そこでしか回収できない)人にとって
you tubeのようなインターネット配信は脅威であろう。

情報は一方で2次的、3次的な緩やかな波及ももたらす。
僻地で情報を取得は可能であっても、なかなか現物に触れることができない人や
その情報を触れるチャンスが無く、数年あいて、その情報を知りえる人もいる。
彼らにはこうした情報をyou tubeを始めとするネット媒体で知ることは実に有益なものだと思う。
即効的な情報として、クリティカルなものである時、それは時として
かなりの部分が消費的であるといえる。
自分の発信している情報は、緩やかに何年も効くものであろうか?
それともこの瞬間にこそ意味があり、明日には意味無き、0と1の配列で表現された
電子的ゴミであろうか?
# by under305 | 2006-05-30 17:55 | 考える

人間の土地

サン=テグジュペリ 「人間の土地」 堀口大學:訳

林檎の木の下にひろげられた卓布の上には、林檎だけしか落ちてこない。星の下にひろげられた卓布の上には、星の粉だけしか落ちてこないわけだ、

いまや彼は自由の身の上だった、……そして彼は感じた、深い飢えのように、人間たちの中の一人の人間、人間たちと関連のある一人の人間になりたいという欲望を。
# by under305 | 2006-05-22 02:35 | 言葉